園子さんのとっぷにもどるまえへつづきへ


初夏から夏へ

春から初夏に向けて、千鳥台の町は急激に暖かさを増して行きます。
からっとした空気と静かに確実に強まる日差しの中、特に舗装や敷き石のある街中の道を歩く時、雪絵さんの口からは思わず

「あぁあ」

というため息が洩れました。

そんな雪絵さんの気を紛らわせてくれるのは、山でも街の並木通りでも一斉に見られる木々の芽吹きの緑でした。

この頃、雪絵さんは2、3回、それぞれ別の場所で園子さんを見かけました。一度などはかなり離れていましたが、雪絵さんには確かにそれが園子さんだと分かりました。セミロングの髪を後ろで束ねて、遠目にも目立つすんなりした長い手脚をした園子さんの身体からは、何か不思議な生気が溢れているようでした。

「あ。園子さんだ。」

お仕事があるって言ってたけど、結構外に出てるのね。
例の赤い手帳を見ながら、街路樹の幹に触ったり、植え込みの上に屈み込んだり…。

(生態環境調査の人…?、かなぁ。でも、若い。)

挨拶したかったのですが、急いで学校に行く途中だったのでそばに行くのはやめました。けれど一度は、園子さんの方でも雪絵さんに気づいたらしく、遠くからまっすぐ雪絵さんを見て、微笑んで手を振りました。ちょっと暑さにぼぅっとしていた雪絵さんには、やけにまぶしい笑顔でした。

(何だか、不思議な感じ。)

あれ、そう言えば、この前園子さんが幹を撫でていた欅の木、葉っぱが一番元気だな。

不思議と言えば、あのお花見の後、雪絵さんは園子さんと、次に会う約束をしていません。

「私、ここ暫くとても忙しいの。でも、きっとまた会おうね。」

園子さんは言いました。

「そうね。」

雪絵さんは答えました。何故かそれで十分な気がして、お互いに何も訊きませんでした。

***

5月の末の中間試験では雪絵さんはちょっと苦労しました。けれど、海から北寄りの風が吹いて しんと湿った寒さが一度戻ってくる梅雨には、風邪を引いたりしている他の友達を他所に、ちょっと調子を取り戻しました。

それで所々良く分からなくなってしまった授業を急いで復習したり、ふぶきと彼方此方駆け回ったりして、6月は飛ぶように過ぎました。

そう言えばこの頃は、園子さんを一度も見ませんでした。

ふぶきはお花見の夜以来、園子さんを「怪しい。」とは言いませんでした。
ただ、一度だけつぶやいたことがありました。

「あの子…。あの、お花見の子と、あんまり仲良くならない方が良いと思うよ。」

「どうして? 何か知ってるの?」

「いや、何となくさ…。わたしの方が、春や夏にはあんたより詳しいからね。」

それっきりふぶきは黙ってしまったので、雪絵さんには何のことかさっぱり分かりませんでした。

***

雪絵さんが久しぶりに園子さんに会ったのは、千鳥台の長い梅雨が終った7月の末でした。

急激に戻ってきた暑さに少し参っていた雪絵さんは、終業式からの帰り道、ちょっと寄り道して山に涼みにやって来ました。そこで、城跡の周りに幾つもある石垣の一つに腰かけて、町を見下ろしている園子さんを見つけたのです。

園子さんは雪絵さんに気がつくと、例の調子でぱぁっと微笑みを浮かべて、雪絵さんをまっすぐ見つめました。

「こんにちは。」

挨拶しながら雪絵さんは、何故かしみじみ嬉しくなっていました。

「こんにちは。」

園子さんも言いました。

「最近見なかったけど、どうしてたの?」

「うん、ちょっと、調子悪くて…。それに私、寒い時には、お仕事あまりないから。」

「ふぅん。」

(そうなんだぁ。)

「一体何のお仕事なの?」雪絵さんがそう訊きかけて、ちょっとためらった時、園子さんが言いました。

「ねね、ところで、ちょっと来て!」

黙って園子さんが行く方について行くと、石垣の裾のところに どくだみがかたまって生えていて、花を沢山つけていました。白い総苞に抱かれた、一見なんてことのない小さな黄色い花穂を指して、

「ほら。」

と、園子さんは目を輝かせました。

「かわいいでしょう? わたし、どくだみの花って好きなの。この辺りでもちょっとお仕事したから、ここに咲くって知ってたんだ。」

雪絵さんは園子さんが嬉しそうに話すのを聞いて、この花をこんなにちゃんと眺めたことが今までなかったのに気がつきました。だって、何しろ暑いんですもの。だけど…。

「本当。かわいいね。」

(そうか。園子さん、どくだみの花が好きなのかぁ。)

雪絵さんはちょっと園子さんを見て、それからまた花に目を移しました。

(そう言えば、夏にも色んなお花が咲くんだな。)

暫くして、園子さんがまた口を開きました。

「ねぇ、そう言えば、」

「なぁに?」

「もうすぐ夏祭でしょ?」

「そうなの? 良く知らないけど。行ったことないから。」

「確かそうよ。私も行ったことないけど。この仕事は前まで母の受け持ちだったから、私は話だけ聞いてたの。あぁ、行きたいなぁ。一緒に行かない?」

夏休みには一番元気をなくしてしまうはずなのに、雪絵さんは思わず頷いていました。ちょっとだけ、

(大丈夫かなぁ。)

と思いましたが、

(まぁ、いぃかぁ。)

何となく、園子さんと一緒なら、夏祭も行ってみたいかも。

「雪絵さん、浴衣、もってる?」

「…白い着物ならある。」

「白かぁ。悪くはないけど、少しさみしいわね…。そうだ! 私がつゆ草の汁で模様描いてあげる。お祭までには仕事もひと段落するし。」

「なら私、髪刺し作るわ。」

雪絵さんと園子さんはどちらからともなく、目をくりくり輝かせて笑いました。


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