園子さんのとっぷにもどるつづきへ


春(出会い)

土手の日陰の斜面などに残っていた、3月初めの雪の名残がようやく消えて桃の蕾がふくらみ始めました。

千鳥台にも、「あの人」が来る季節のようです。

***

学校に通うために山から出てきた雪女の雪絵さんの、町で初めての冬が終ろうとしていました。もしかしたら後一回位、気まぐれな雪雲の出番があるかも知れないけれど、それでもう最後でしょう。これからは夏に向けて段々暖かくなるのでしたが、雪絵さんは今くらいの季節を意外と心地好く思っていました。

もうすぐお山に辛夷も咲くから、ふぶきと月夜の花見に行こう。

そんなことをぼんやり考えながら、川沿いの道を学校へと向かっていた時でした。

土手の斜面に佇む、同じ年格好の女の子が、ふと目に止まりました。
背の高さは雪絵さんと似たりよったり、少し癖のあるセミロングの髪に、長くて華奢な首と手脚のその子から、何故か眼が離せなくなりました。

じっと見つめていると、その子は不意に屈み込んで、辺り一面に顔を出していたたんぽぽの蕾の一つにそっと手を触れました。何だかまるで、話しかけてでもいる様です。
かと思うと、黒いジャケットの胸ポケットから赤い革表紙の手帳を取り出して、ちょっとぱらぱら中味に目を走らせました。そうして、再び蕾に目を落すと、また何事か囁やきました。少なくとも、雪絵さんにはそう見えました。

気がついてみると、女の子のすぐ向うの斜面に一本生えている白梅の花が、もう五分咲きになっています。

昨日はまだ、咲いていなかったのに。

雪絵さんは瞬きしました。
それからもう一度、あの女の子に目を移しました。すると、女の子は不意に顔を上げて、まっすぐ雪絵さんと目を合わせると、いたずらっぽく微笑んだのです。

お日様がぱぁっと光るような、不思議な笑顔でした。
雪絵さんは思わずぼぅっと見とれました。
この前授業で習った歌が唐突に頭をかすめました。

「はるのその くれなゐにほふもものはな したでるみちにいでたつをとめ」

それが園子さんとの出会いでした。

***

雪絵さんが初めて園子さんと口を聞いたのは、やっぱりこの土手沿いの野原でした。

何日か後の学校からの帰り道、同じように、ふわりと佇んでいるところを見かけた途端、「あの子」はこちらを向いたのです。

二人はどちらからともなく、「こんにちは。」と挨拶しました。

「わたし、園子といいます。あなたは?」

「雪絵。」

さてここで、雪絵さんはちょっと困りました。実は雪絵さんは、若い女の子と話すのが、あまり上手ではなかったのです。

例えば、学校の同じクラスの女の子たちとおしゃべりをしていたりすると、恋の話になることがあります。そうして自分の好きな人の話をひと仕切りした友達が「今度はあなたの番よ。」と、雪絵さんに言ったりします。そんな時咄嗟に黙っていると、「何よ、私のこと、信用できないの?」などと言われてしまうのです。

別にそんなことはありません。ただ、もう何百年か生きてるけれど、恋人がいたことは一度もないし、理科部以外の男の子と親しく口を聞いたこともないので、何か話そうと思う度、話すことが何もないのに気づくのでした。

(それだけなんだけどなぁ。)

だから、雪絵さんは(この子にも男の子のことを訊かれたらどうしよう。)と、ちょっとどきどきしていました。

それに、もし、誕生日とか、訊かれたら…。

ところが園子さんはにっこり笑うと、続けていきなりこう言いました。

「雪絵さん、良かったら、今度一緒にお花見に行かない?」

***

手元の手帳をめくりながら、園子さんは続けました。

「あのね。今年は、中央公園では3週間後の月曜日、お城の公園では火曜日に桜が咲き始めて、両方とも大体金曜日に見頃を迎えると思うの。」

雪絵さんは呆気にとられてしまいました。

「どうして分かるの?」

園子さんはふわりと微笑みました。

「勘、かしら…。仕事柄。」

(…?)

「だから、えぇと、4月の20日の金曜日。…雪絵さん、大丈夫?」

何だかどんどん話が決まってしまいそうです。

「えっと、昼間は学校があるけど、夜なら大丈夫。園子さんは、学校へは行ってないの?」

「ええ。わたし、仕事でこの町に来てるんですもの。」

「そう。」

「ところで、どちらの公園でお花見する?」

「お城…でいい?」

「よかった。私もそっちに行きたかったの。」

「…あのね。」

「なぁに?」

「犬が一匹、いてもいい?」

「もちろんよ。」

雪絵さんの口元からも、ひとりでに笑みがこぼれました。

こんな風にして、雪絵さんは園子さんと友達になりました。

***

その日うちに帰って来て、雪絵さんは同居しているやまいぬの妖怪ふぶきに園子さんのことを話しました。

「ふぅん。それで、その子、どこに住んでるの?」

「え?」

(あれ、そう言えば…。)

「聞いてないの?」

「うん。」

「向うは?ここのこと、教えたの?」

「うぅん。」

「ふぅん。それで一緒にお花見に行くのかい?」

「うん。」

(何とかなるわ。)

何となく、そんな気がしました。

「だから良かったら、ふぶきも行かない?」

「まぁ、いいけどね…。でも、」

ふぶきは口の中でぶつぶつ言いました。

「いつも思うけど、あんた、暢気だね。だいたい、その子、ちょっと怪しいんじゃないかい?しばらく気をつけた方が良いと思うよ。」

「どうして?」

「いいよ、もう。」

ふぶきは大きくひとつあくびをしました。

***

4月の半ばに入ると、街で見かける桜の木も花芽を出し、やがて、ほんのり紅い花柄の先の桃色の蕾で一杯になりました。雪絵さんは、山でよく見る、すくっと空へ伸びる桜に比べて、幾分ずんぐりと踊るように身をくねらせて立つ染井吉野の木や、その花の織りなす薄桃色の霞の様な景色を、町に出て来て初めて見ました。その時から、雪絵さんはこの花に、少し恐いような、だけど心惹かれるような何とも言えない気持ちを抱いていました。

やがて、校庭の隅に一本生えている桜も今年最初の花を開きました。

約束の日の夕方、学校から帰って来ると、雪絵さんは制服のスカーフを外し、この日のために用意しておいた薄桃色のスカーフを巻きました。

尾戯城跡の公園の、街を見下ろす東側の庭に植えられた8本の桜の花は、果たしてもうすぐ満開でした。ところどころに残った蕾も、もの言いたげに綻びかけています。

ふぶきと一緒に木々の間を彷徨いていると、園子さんが現れました。灯いたばかりの電灯の光に照らされた園子さんは、この前と同じ黒いジャケットを着ていましたが、下のジーンズはタイトスカートに変わっていました。丈は膝が出る位。かなり濃い目のピンク色。

染井吉野というよりは、カンヒザクラの花の色。

でもやっぱり…。

(この子も同じこと考えて来たんだ。)

雪絵さんは嬉しくなりました。丁度その時、園子さんも言いました。

「まぁ、あなたも、今日のテーマはお花見ね。」

雪絵さんと園子さんはどちらからともなく、声を立てて笑いました。

ふぶきは園子さんをひと目見た瞬間、その青みがかった両目に不思議な光を浮かべました。暫くそのまま園子さんをじっと見つめていましたが、やがてちょっと首をすくめると黙って気に入った木の下に蹲りました。

二人の女の子はその夜、細い月が東の空に顔を出すまで、ぽつりぽつりと話をしながら、電灯の下の花を眺めていました。


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