8月に入りました。山の緑はますます深くなり、約束の日に向けて「体力温存」する 夏ばて気味の雪絵さんをよそに、日当たりの良い庭々に鮮やかなホウセンカの花が咲きました。
お祭りの前日、雪絵さんは大きなお皿に、大きな氷を二つ作りました。冷凍庫から出した氷は白っぽくて、良く見ると、細かい筋や泡がいっぱい入っています。
「氷室の氷みたいに澄んでないのね。大丈夫かしら?」
それでも、雪絵さんは深く息をすると、その氷を彫り始めました。暫く使っていなかった氷の刃は、初め、ちょっとキィキィ鳴りました。けれど段々に勘が戻って来て、雪絵さんが熱中するにしたがって、部屋の中は氷が少しずつ削れて行く、ポロポロッという微かな音に包まれました。
陽が暮れる頃、髪刺しが二本彫り上がりました。
雪絵さんは額の髪をちょっと掻き上げると、大きく息をつきました。
そして、アマチャヅルの葉と実をかたどった自分用の髪刺しには水晶の粉を、ヤナギタデの葉と幾筋もの花穂をかたどった園子さん用の髪刺しには琥珀の粉を、サラサラと振り掛けると、二本の氷の髪刺しを冷凍庫に戻しました。
翌日、雪絵さんは一晩寝かせた髪刺しを握りしめると、ふぶきの背中に乗せて貰って園子さんとの待ち合わせ場所に急ぎました。
千鳥山の中腹にあるひと気の無い朽ち掛けた地蔵堂の前で、園子さんが着物を抱えて待っていました。雪絵さんが少し前に預けておいたものでした。
早速お堂の蔭で着替えをしました。一枚しかない白い着物は、一面につゆ草の汁でつゆ草の模様を描いて貰って、夏にぴったりの ほのかに大人っぽい着物に変わっていました。
「おはしょりをいっぱいして、短めに着てみてね。」
「うん。」
帯を締め終えて園子さんたちの前に立った雪絵さんは思わず嬉しくなって顔一杯に笑みを浮かべました。いつのまにか園子さんも紺地に朝顔の柄の浴衣に着替えていました。
雪絵さんは思い出したように、右手に握っていた髪刺しを園子さんの髪に刺し、左手のを自分の髪に刺しました。
雪絵さんたちを眺めたふぶきが「ふぅん」と言うように鼻を鳴らしました。
園子さんは一度髪から髪刺しを抜いてしげしげと眺めると、
「素敵。これ本当に雪絵さんが作ってくれたの?」
と感心したように訊きました。
「うん。今日一日しか使えないけど、気に入って貰えて嬉しいわ。」
「ふぅん。綺麗なものは留めておけないのね。」
園子さんは微笑みました。雪絵さんは一瞬きょとんとして園子さんを見つめました。それからなんだか無性に嬉しくなりました。
「あのね。」
「なぁに?」
「この着物も素敵。どうもありがとう。」
「こちらこそ。」
二人は街に繰り出しました。
陽が暮れかけた通りには提灯が灯り始めています。普段は買いもの客で賑わうアーケード街の屋根からは色とりどりの飾りがぶら下がり、何やら色々な屋台や露店が両脇に並んでいました。
雪絵さんと園子さんはくす玉や星飾りの下をくぐりながら、のんびり彼方此方の露店を見て回りました。
ラムネを飲みながら歩いていると、舗道に敷いた布の上に白い陶器を沢山並べて売っているお姉さんが目に止まりました。器はどれもかわいらしくて面白そうなお店でしたが、お客さんは余り来ていないようです。二人は申し合わせたように小走りにお姉さんに近付きました。
「こんにちは」
「あら、こんにちは」
お姉さんは目をくりくりさせて元気に返事をしてくれました。
「これ、みんな、お姉さんが作ったんですか?」
雪絵さんと園子さんが尋ねたのは同時でした。お姉さんは目を丸くして二人を見上げると、次の瞬間声を立てて笑い出しました。
「そうよ。」
暫く笑った後、お姉さんは答えました。そして色々お話してくれました。お姉さんの名前は ちひろさんということ。千鳥台の北の外れは昔から綺麗な水に恵まれて粘土を取れる場所も近かったので、昔この辺りの貧しいお侍さんたちが副業に焼きものを始めたこと。それであっさりした独特の味わいの焼きものが発達したこと。ちひろさんはその中で、白い焼きものが昔から好きだったこと。大学を卒業して、とうとう自分で窯を始めてしまったこと…。
「でもねぇ。まだ全然売れないのよねぇ。」
お姉さんは笑いながら言いました。雪絵さんと園子さんは改めて、お店に並んだ器を眺めました。良く見るとどれも真っ白ではなくて、おまけに一つ一つ色が違います。うっすら赤いもの、黄色っぽいもの、すぅっと水色が入っているもの…。
「どう? 何か気に入ったもの、あるかしら?」
ひときわ雪絵さんの目を引いたのは、まるで森に静かに降る雪のような模様のついた小さな湯飲みでした。とろりとしたやわらかい白の釉をわざと濃淡をつけて流した様に、ところどころ地の色が透けて見えていて、一面に白い点が散らしてあります。
雪絵さんは思わず湯飲みを手に取りました。園子さんは園子さんで、ほのかに緑色っぽい小さな一輪刺しを取りあげて、目をきらきら輝かせました。
結局、それぞれひとつづつ、二人は焼きものを買いました。
「ありがとう。のんびり準備して、十月位にまた新作を焼くから、是非一度窯の方にも来て頂戴な。」
ちひろさんは嬉しそうに言いました。
雪絵さんは思わずにっこりして隣の園子さんをちらりと窺いました。園子さんは何も言いませんでした。最後に例の調子で微笑んで、ちひろさんに
「さよなら。」
と言いましたが、その前に一瞬、何処となく寂しそうな表情を浮かべたように、雪絵さんには見えました。
「どうしたんだろう?」
雪絵さんはちょっと、心配になりましたが、園子さんはその後何も変わった様子を見せませんでしたので、すぐに忘れてしまいました。
並木通りのパレードを見て、民芸品屋さんをちょっとひやかした後、地元の人たちで賑わう小さな食堂に入ってお夕飯を食べました。
食堂を出ると、もうすっかり夜でした。
二人は提灯の明りに照らされながら何となく人の流れに乗って大通り沿いに川の方へ下って行きました。途中で花火が見えました。
そのまま橋を渡って千鳥山の山裾に戻って来ると、博物館前の広場に櫓が立っていて、その周りに人が集まって踊っていました。
「母が言っていた、夏祭の踊りだわ。」
「ふぅん。」
雪絵さんが浴衣姿の人たちの踊りを眺めていたら、いつの間にか園子さんが踊りの輪に加わっていました。
雪絵さんは、見よう見まねで手足を動かしたりくるくる回ったりしている園子さんを見つめました。
恐らく園子さんには初めての踊りのはずですが、華奢な腕でふわりと夜風を掬ったり砂地を滑べるように歩む姿には、不思議な優雅さが漂っています。暫くすると、振りを覚えてしまったらしく、瞳は微かにきらめいて、細かい首のかしげ方や目線にまでゆとりが出てきました。何やらどんどん周りの人から、園子さんだけが際だつ様です。
やがて、踊っている園子さんの手足から、銀の粉が流れ出てくるような不思議な感じがして来ました。目をこすって良く見ると、どうでしょう。何時、何処から飛んで来たものか、蛍が3つ4つ、園子さんの周りを飛んでいるのでした。
ゆるやかに点滅する淡い黄緑色の明りをじっと見つめていたら、雪絵さんは古里の山の椿祭を思い出しました。
三年に一度位、吹雪の後にからりと晴れて春のように暖かい日が暫く続き、山の奥深くに生えている白椿の花が真冬に満開になることがあります。
そんな時、山の姐さんたちがひとりふたりと集まって来て、無言で木の周りを回りながら舞いを踊り始めます。舞いは二日三日と続き、辺りに聞こえる音と言えば、姐さんたちの衣の擦れ合う音と、何枚もの袖に一斉に払われた雪が微かにシャンシャン鳴る音だけになります。
小さな銀の鈴のような、椿祭の雪の鈴。
祭の間、山には風も吹かず、雪は静かに絶え間なく降り続きます。
(私も、次か、その次の椿祭には、一緒に踊るはずだったんだ…。)
いつか雪絵さんは、輪から外れた桜の木の下で、一人小さく踊っていました。
音楽が終って我に返ると、園子さんがいつの間にか踊りの輪から抜け出して雪絵さんの方を見ていました。
「素敵ね。雪絵さんの周りだけ、空気が白くたなびくみたい。」
雪絵さんはちょっと赤くなりました。
祭もお終いの様でした。気がつけば、この前満月を過ぎたばかりの月がもう随分高く昇って来ています。
雪絵さんたちの髪刺しはいつの間にか消えていて、ただ、心持ち湿り気を帯びた二人の髪に、何やらきらきら光る粉が残っていました。
「終ったね。」
「うん。」
「帰ろうか。」
二人は笑い合いました。