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桃祥院桜子さんのお話

桃祥院桜子さんはすらりと背が高く、背中の真中辺りまで届く長い髪をした、高校2年の女の子です。

遠くの町のエスカレーター式超お嬢様学校の中等部から千鳥台にある共学の進学校に、わざわざ受験をして移って来ました。入学後暫くの間、入る部活に迷っていたようですが、今では茶道部の部長さんをしています。

前の学校へは、毎朝 爺やに付き添ってもらって、黒塗りの車で通学していました。
桜子さんは基本的に赤い毛氈の上しか歩かない人だったものですから、爺やはくる日もくる日も、くるくる巻いた赤い毛氈を抱えて、桜子さんの行く所何処へでもついて来てくれました。自動車通学が禁止されている今の学校に受かった時、桜子さんが「もういいのよ。」と言ったら、爺やが泣いたので、桜子さんも泣きました…。

そんな桜子さんですが、今では堅い地面や床の上を歩くのにも、ちょっぴり癖のある千鳥台の市営地下鉄に乗るのにも、すっかり慣れたみたいです。

***

良く晴れた空の高い所に真っ白い小さな雲がぽつんぽつんと浮かんでいる秋の日のことでした。雪絵さんはぼんやり土手に佇んでいました。手には小さな紙が握られています。
紙の表には「進路希望調査書」と書いてありました。

「希望する進路、または進学先を第三希望まで書くこと。」

(どうしようかなぁ。)

雪絵さんは割合成績が良かったので、担任の先生は雪絵さんのことを、てっきり上の学校へ行くものと思い込んでいる節がありました。雪絵さんとしても、興味のないことはありません。けれど、そうすると もう何年かは山へは帰れないことになります…。

(そう言えば、『山に戻って雪女をする』って、どう書けばいいんだろう。)
(家業の手伝い…、かなぁ。)

そんなことをぼぅっと思いながら橋の方を見やると、人通りの少ない大きな橋の上の歩道で、すらりとした綺麗な女の子が、二人の男の人に道を塞がれていました。

女の子の方には見覚えがあります。話をしたことはありませんが、確か、同じ学年で、茶道部の部長さんをしている人でした。名前は、そう、「桃祥院さん」。

その桃祥院さんが、今、薄汚れた空色のセーターを着た男の人に、左腕を掴まれていました。

雪絵さんは思わず橋の上に飛んで行きました。桃祥院さんたちまで10メートル程の所に来た時、男の人が言いがかりをつけているような、大きな声が聞こえてきました。

「今、ぶつかっただろ。謝れ。」
「こちらはちゃんと『失礼』って申し上げたじゃありませんか。 そちらこそ、何もおっしゃらないのは無礼じゃございませんこと!?」
「五月蝿い! 生意気言うんじゃねぇ!」

雪絵さんは思わず口をはさみました。
「一人に二人がかりで何してるんですか!?」

今度は先程とは違う、背の高い男の人が振り返って怒鳴りました。
「うるせぇよ。関係ない奴は引っ込んでたらどうだ!」

雪絵さんは珍しくかっと腹を立てました。身体がみるみる50センチ位浮き上がり、長い髪が次々に逆立つのを感じ、口からは氷の粒の混ざった冷気が吹き出て来て、たちまち辺りに幾筋ものつむじ風が起こりました。

二人の男が1、2歩後ろに下がったのを見て思わず鼻でせせら笑いながら、雪絵さんは吐き捨てるように言いました。

「ふざけるんじゃないよ。相手が弱いと見込んでつけ上がってるんだろうが、みっともないことこの上ない。」

雪絵さんの口から更に冷気が溢れて来て、あっけにとられている二人の顔に霜がつき、髪からつららがおりかけた時、雪絵さんははっと我に帰りました。
桃祥院さんが、驚いた顔で自分の方を見ていたのです…。

(しまった。ばれた!?)

雪絵さんがひるんだ隙に、男たちの顔からふっと恐ろしさが薄れ、横柄な態度が反射的に戻って来ました。ふたりが飛び掛かって来るのを感じて、再びむらむらと湧き上がって来た怒りに駆り立てられて、雪絵さんは一瞬

(えぇい、なんでもいいわ。とにかくこんな奴ら、氷漬けにしてくれる。)

と思いました。けれど、その瞬間、生きものを無闇に傷つけてはいけないという山の掟を思い出したのです。雪絵さんは、胸にずんと痛みを覚ました。結局あわやという所で力を使うのを思い留まった雪絵さんは、相手が手を出して来たら手刀でも浴びせて橋の欄干に跳び上がろうと、低く身構えました。

(ふぶきにこんなこと知られたら、また何か言われるわ。)
(ま、いいけど。)

いよいよ二人があと一歩の所まで雪絵さんに迫ったその時です。桃祥院さんがさっと雪絵さんと二人の間に割り込んで来ました。次の瞬間、
「はぁ!」
という声がして、何か白いものがひらりと雪絵さんの目の前で動きました。桃祥院さんが素早い身のこなしで次々に二人の腕を捻り上げると、軽がると放り投げたのです。
二人の身体は高く飛んで、そのまま川に落ちて行きました。川面から上がった水しぶきを眺めながら、桃祥院さんはおっとりと首をかしげました。

「あらぁ、またやり過ぎちゃったわ。変ねぇ、何がいけなかったのかしら。」

雪絵さんが目をまるくしていると、桃祥院さんは
「どうもありがとう。確か、楓組の深山雪絵さんよね?」
といって手を差し出して来ました。

「あなた、怒ると迫力あるのねぇ。びっくりしたわ。」

雪絵さんはほっとして、みるみる身体の力が抜けて行くのを感じました。

(良かった。ものに動じない人で…。)

そうして差し出された手を握り返しながら言いました。
「うぅん、桃祥院さんこそ、強いのね。」
「ふふ。私、ほんとは空手部か合気道部に入りたかったの。護身術は独学じゃ限界があるんだもの。でも今度の学校にもやっぱりないのね。」
桃祥院さんはにっこり笑いました。
「そう。」

「あのね、」
「何?」
「桜子でいいわ。桃祥院さんじゃ、長いでしょ?」
「じゃ、私も、雪絵って呼んで。」
すると桜子さんは、川の方を指さしながら、悪戯っぽく笑って言いました。
「じゃ、雪絵さん、とりあえず、あの二人が呆けてるうちに、ここから離れない?」
「そうね。」
二人は橋を後にしました。

その日から、雪絵さんは良く桜子さんと話をするようになりました。

***

三週間程経ったある日、桜子さんは雪絵さんを、お家に招待してくれました。

「地下鉄で一本の桃園駅よ。駅のすぐ外から、ずぅっと、うちの敷地になってるから、次からはきっと分かりやすいと思うわ。」
「中央駅から何分位?」
「えっと、この町の地下鉄、ちょっと変わってるから、そういう風に聞かれても、あまり意味が無いかも…。」
「?」
「駅の順番は乗る度に変わるの。家につくまでに文庫本が一冊読めることもあるし、本を開いたと思ったらもう降りなきゃならない時もあるわ。」
「そうなの。」
(それって、変わってるのかしら。深雪山の獣道だって、似たようなものだったけど…。)
「えぇ、面白いでしょ? 昔はどの駅も決まった順序で並んでたんだけれど、5年位前に突然こうなったんですって。初めは結構混乱したけど、今じゃみんな慣れてしまったみたい。私は、今の学校に入って初めて乗ったの。」
「ふぅん。」

その日は桃園駅の「遠い日」でした。雪絵さんと桜子さんは2分おきに窓の外を気にしつつ、のんびりお話しながら電車に揺られて行きました。
電車に乗ってから かれこれ1時間半程経った頃、桜子さんが尋ねました。

「雪絵さんはどうして、今の学校に来たの?」
「えぇと、勉強って、やってみたくて…。山から…、あ、つまり、前住んでた所から出て来て、初めて見たのが今の学校で…。」
「ふぅん。」

「桜子さんは、どうして?」
すると桜子さんは少し照れた様に笑って、首をかしげながら言いました。
「私はね、髪の毛を、垂らしてみたかったの。前の学校では、私くらい長い髪はお下げにしなければいけなかったから…。」
「ふぅん」

その時でした。桜子さんが不意に後ろを振り返って
「あ、そろそろみたい。」
と言ったかと思うと、地下鉄が地上に出たのです。雪絵さんがつられて窓の外を振り向くと、秋の夕方の赤みを帯びた日の光が、真正面から一杯に射し込んで来ました。思わず目を細めて、一瞬暗くなった視界の先をじっと見つめると、朱くとろける滑らかな鏡のような太陽が、遠い、黒い山の縁の向こうに沈んで行こうとしていました。

それを眺めながら雪絵さんはふと
(進路のことは、好きなようにしてみようかな。)
と思いました。


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