とっぷぺーじにもどる、 まえのおはなしへ、 つぎのおはなしへ
雪絵さんの古里の山には、雪女や山の精の姐さんたちが沢山住んでいました。
その中で、雪ん子の頃の雪絵さんを一番可愛がってくれたのは、氷室守りの雪乃姐さんと椿守りの薄氷姐さんでした。
夏の間、雪女のお仕事は割合と暇になります。それに北国の山の中といっても、夏はそれなりに暑いので、雪女さんたちは山奥の秘密の氷室で涼んでは、ときどき気が向いたときにふらりと山の見回りに行ったりします。小さな雪ん子の頃は、特に暑さに弱いので、ほとんど氷室に籠りきりになりました。
雪絵さんがもの心ついたばかりの頃の微かな記憶を辿ると、氷室の中で雪乃姐さんが彫り物をしているのを夢中で眺めていたことや、その雪乃姐さんの言いつけで、薄氷姐さんに氷のユキザサやヤマユリを届けたことが一番に思い出されます。
雪絵さんが氷枕といっしょに雪乃姐さんの彫りあげたお花を持ってゆくと、薄氷姐さんはいつも静かに微笑んで雪絵さんを抱き上げ、氷枕に腰かけて一緒にそれを眺めながら、山の昔話をしてくれました。
大昔、春と秋の年二回、山の麓に集まってきた人間たちの歌い交わした歌の話。雪ん子だった頃の姐さんが見つけた百合の群咲く谷の話。山に入ってきた人間の若者に魅せられて里に追いかけて行き、暫くして泣きながら戻ってきた雪女の話。同じように山を出て行って、二度と戻らなかった何人かの姐さんたちの話…。
姐さんが椿の花から集めた露に氷を浮かべて作ってくれる冷茶を飲みながら、雪絵さんはお話に聞き入りました。
でも不思議です。山の斎場の白椿の木から離れることのない姐さんが、こんなに色々なことをいつの間に見たり聞いたりしたのでしょう?
ある時雪絵さんは思い切って姐さんに訊いてみました。
「ねぇ。」
「なんだい?」
「薄氷姐さん、昔は椿守りじゃなかったの?」
姐さんは、ふと目を細めて暫く黙っていましたが、やがて
「そうだよ」
と答えました。
その日、姐さんはそれっきりもの思いに沈んだように、一言もものを言いませんでした。
それから少し経ったある日、雪絵さんはいつものように、雪乃姐さんに薄氷姐さんへの届け物を頼まれました。
雪絵さんは雪乃姐さんが彫り出した見事なムクゲの枝を眺めながら、何とはなしに尋ねました。
「ねぇ、雪乃姐さん。どうしていつも、薄氷姐さんに、氷のお花を届けるの?」
雪乃姐さんはちょっと黙り込んだ後、大きくひとつ息をすると、ゆっくり雪絵さんの頭を撫でながら言いました。
「薄氷はねぇ、昔から本当は誰よりも山を歩き回るのが好きなんだよ。でも今は、斎場をはなれられないだろう? だから時々、折々のものを見せてやりたいのさ。まぁ、作り物だけれどね…。」
雪絵さんはそれを聞くと嬉しくなって勢い良くうなずきました。
何だか、色々なことが、いっぺんに分かった気がします。
その日、雪絵さんは薄氷姐さんに、それとなく訊いて見ました。
「ねぇ、姐さん。」
「なんだい?」
「姐さん、椿を抜きにすると、何の花が一番好き?」
これを聞いた姐さんは一瞬目を丸くした後、ちょっと遠くを見るように目を細めました。
そして暫くしてゆっくりと答えました。
「そうだねぇ…。りんどう、かねぇ…。」
姐さんの瞳に、何とも懐かしそうな光が浮かびました。
月がもうひと巡りするかしないかのうちに、深雪山の山道沿いに、リンドウは沢山咲きます。
この日、雪絵さんは密かにあることを思いつきました。
ひと月後、雪絵さんはいつもの届け物を抱えて、ちょっと寄り道していました。
山道には明るい紫のリンドウがちらほら咲き始めています。
雪絵さんはあちらの山道、こちらの山道と、花を見比べて回りました。なるべく花色の綺麗なもの、葉っぱの色の深いもの、花付きの見事なもの…。
やっと、何とかこれと思う花に行き当たった頃には、もう何処をどう歩き回ったやらさだかには分からず、雪乃姐さんから預ったオミナエシの花房も、うっすら溶けかかっていました。
雪絵さんは迷わず紫の花を手折ると、それを握りしめたまま薄氷姐さんの許へ飛んで行きました。
薄氷姐さんは、珍しく、椿の露を集めながらそのまま眠ってしまったらしく、いつものお茶入れを両手で包むようにして持ったまま、目を閉じてじっと座っていました。
雪絵さんはそんな姐さんの前に氷のオミナエシとリンドウの花を並べると、ひとり満足して大きく息をつきました。いつか雪絵さんは、満面に笑みを浮かべていました。
やがて日がすっかりのぼり切った頃、薄氷姐さんは静かに目を開けました。そして雪絵さんがいるのに気がつくと、いつものように静かに笑いました。
ところが、ふと手許のリンドウの花に目を落したとき、みるみる姐さんの顔色が変わりました。
「雪絵…。」
姐さんが雪絵さんの両肩を掴みました。
「これ、おまえが取って来たのかい?」
それまで雪絵さんが一度も見たこともないような険しい顔をした姐さんの目に、何か思いつめたような光が宿っています。
雪絵さんはびっくりして、何やら恐くなり、声を詰まらせながらうなずきました。
薄氷姐さんは黙ってリンドウの茎を掴むと、その折り口を調べました。
「良かった…。この切り口はまだ生きている。」
雪絵さんに向き直った姐さんは静かに、けれど鋭く言いました。
「すぐに、これが咲いていたところに、私を連れておいで。」
雪絵さんは半泣きになりながら姐さんの手を引いて、必死に花を手折った場所を探しました。やっとその場所に辿り着いたのは日も暮れかけた頃でした。
薄氷姐さんは無言のまま雪絵さんの指す花株に駆け寄って夢中で折り跡を探すと、そこにずっと掴んでいた茎の折り口をそっと合わせました。
そのまま姐さんは、つなぎ目を手の平で包み込むようにして、暫く茎を握りしめていました。
姐さんの顔が次第に苦しそうに歪み、額からは銀色の雫がぽたぽたと落ち始めました。
雪絵さんはすっかり恐くなって、震えながら姐さんに声を掛けました。
「姐さん…?」
「黙っておいで。」
姐さんは喉の奥から声を絞り出すようにして言いました。
「これはね、おまえにはまだ無理なんだよ…。」
雪絵さんは、もう何も言えませんでした。
やがて薄氷姐さんは、ほっと息をつくと、力尽きたようにその場に倒れました。
雪絵さんは夢中で駆け寄ると、姐さんの身体を揺すって呼びかけました。
「姐さん、姐さん…。」
姐さんは目を開けられないまま雪絵さんの手を握ると、ゆっくり答えました。
「だいじょうぶだよ…。なんとか間に合ったようだ…。」
リンドウの茎の姐さんがさっきまで握っていたところは、良く見るとうっすらと光っていましたが、すっかり元通りの形に繋がっていました。
「いい子だから、誰か呼んできておくれ。」
雪絵さんは駆け出しました。
氷室に辿り着いて雪乃姐さんの顔を見たとき、雪絵さんは火がついたように泣きだしました。雪乃姐さんはびっくりして雪絵さんを問いつめましたが、雪絵さんは答えることが出来ません。夢中で雪乃姐さんの手を引いて、薄氷姐さんのところに飛んで行きました。
そこに咲くひと株の花と二人の様子を見ておおかたのことを察したのか、雪乃姐さんは、黙って薄氷姐さんの身体を抱えあげました。そして雪絵さんに氷を取りに行くよう言いつけると、斎場へ飛んで行きました。
雪絵さんが氷を抱えて斎場に翔けて行くと、雪乃姐さんが薄氷姐さんをいつもの椿の木の根本にそっと寝かせているところでした。
「だいじょうぶだよ。」
薄氷姐さんの顔を覗き込んだ雪絵さんに、雪乃姐さんが声をかけました。
「木のそばを離れた上に力を使ったんで、少し疲れたんだろう。」
雪絵さんは気づかないうちうちにしゃくりあげていました。雪乃姐さんは雪絵さんの肩をそっと抱いて言いました。
「よしよし…。もう、いいんだよ。間に合ったみたいだし、もう分かっただろう?」
雪絵さんは暫く泣き止むことが出来ませんでした。
やがて目を開けた薄氷姐さんは、じっと枕許にはりついていた雪絵さんに黙って笑いかけました。雪絵さんが何も言えずに見つめていると、姐さんは言いました。
「いいかい? 私たちは山のものだけど、山は私たちのものじゃないんだよ…。」
雪絵さんの目から、また涙がぽろぽろこぼれ落ちてきました。
「二度と、ただ慰めのためだけに生きている枝に手を触れたりしちゃいけないよ…。でないと…、」
雪絵さんは夢中でうなずきました。姐さんは後を続けることができずに、また眠りに落ちて行きました。
その夜、目を真っ赤に腫らした雪絵さんの背中をさすりながら、雪乃姐さんが話してくれました。
「薄氷もねぇ、昔恋をして山を降りたことがあるんだよ。」
お話はときどき途切れながらつづきました。
山を降りて暫くして、姐さんは恋をあきらめて山に戻ってきたこと。けれども相手の若者の方が姐さんを追って雪に覆われ始めた山に入って来てしまい、そのまま道に迷って息絶えたこと。姐さんが若者のなきがらを捨て置くことができずに、斎場の椿の花をひと枝折って若者に手向けたこと…。
「それで?」
「それから、薄氷は木に『つながれ』てしまったのさ。」
「姐さんが『椿守り』になったのはそれからなの?」
「そうさ。」
雪乃姐さんは答えました。
「それが『償い』なんだよ…。」
暫く黙っていた後、雪絵さんはつぶやきました。
「薄氷姐さん、どうしてわたしのことたすけてくれたの?」
「さぁねぇ…。」
「まぁ、おおかた、ただそうしたかったんだろうよ。」
半ばまで欠けた月が傾きかかり、東の山際がほんのり姿を現し始めていました。