ゆみちゃんと都さんのとっぷにもどるはじめへ


山茶花の頃…

11月の終りになると、ゆみちゃんの家の近くにある博物館の庭に、八重咲きの白い山茶花が咲きます。ほろほろと散っては咲き、咲いては散る山茶花の花は、2月の半ばまで一杯に、深緑の木を飾ります。

ゆみちゃんにとってこれまででいちばん悲しいことがあった日も、この花が咲きこぼれていました。

***

ゆみちゃんには初め、何が起こったのか分かりませんでした。ただ、お母さんが泣いていました。お母さんが泣いているのを見るのは、ゆみちゃんには初めてでした。お父さんが「ちょっとお出掛け」した3、4日前から、留守がちで何か様子が変だったお母さんは、その日朝からおこたつに入って肩を落してぼうっとしていました。(おかしいな。)と思って正面に回ってお顔を覗きこんでみると、お母さんは疲れ切ったように閉じた両目から、声も立てずに涙をはらはら流していました。涙は次々に出て来て、こたつ板の上に落ち、あたりはびしょびしょになりました。

ゆみちゃんはただもうびっくりして、何とかしなければと思いました。お母さんが壊れてしまいそうな気がしたのです。けれどどうしていいのか分からず、ただぴったり寄り添って座ると、お母さんの髪の毛を何度もゆっくりと撫でました。

そしてゆみちゃんは、お父さんが4日前に急に倒れて、もう二度と帰って来ないのだと聞かされました。

***

お昼頃になると、まず、少し前から泊りに来てくれていたお母さんの妹のなほさんが、小さなかなちゃんとおばあちゃんを連れて戻って来ました。それからあっという間に色々な人が訪ねて来て、ゆみちゃんのお家は慌ただしい雰囲気に包まれました。

ゆみちゃんは紺のジャンパースカートを着せられて、かなちゃんとおばあちゃんと一緒に和室の隅に座っていました。なんだかまだ、良く訳が分かりません。お母さんを見ると、さっきのことが信じられないほど落ち着いていて、他の人たちに混ざって動きまわったり、色んな人にあいさつしたりしています。けれどお母さんの目は、まるで何も見ていないように見えました。なほさんがずっと、お母さんの側についていました。

ゆみちゃんは何だか疲れてしまいました。おばあちゃんは何も言わずに、ずっとゆみちゃんの背中を撫でてくれていました。

見るとも無しにぼんやり、おばあちゃんのお膝にいるかなちゃんの顔を眺めると、もうすぐ2歳になるかなちゃんがゆみちゃんに向かってにっこりと笑いました。今日はご機嫌が良いみたいです。ゆみちゃんは何だかとてもほっとして、つられてにっこり笑いました。

その時です。

「あらまぁ、父親が死んだっていうのに、笑ってるわ。どういう子なのかしら。」

という声が聞こえました。

何度か見覚えのある親類のおばさんでした。

ゆみちゃんはどきっとしました。

「お父さん、死んじゃったの…?」

ゆみちゃんがつぶやきかけたのと、お母さんがすっとおばさんに近付いたのは殆んど同時でした。

「木場のおばさま…!」

呼びかけられて振り返ったおばさんの顔をお母さんは黙ってピシャリと打ちました。

おばさんは真っ赤になって目を剥いてお母さんを睨みつけました。

「まぁ、まぁ…。一体、何てことなの?」

「失礼は承知しておりますわ。どうぞお帰り下さい。」

お母さんは背筋を伸ばしたまま静かに言い放ちました。

「何だって!?」

「お帰り下さいまし。」

もう一度、お母さんが言いました。

おばさんは恐ろしい顔をしたかと思うと、ぷぃっと皆に背中を向けて、どたどたと去って行きました。

お母さんは周りの人に「どうも、失礼を致しまして…。」とつぶやくように謝った後、その場に座り込みました。ゆみちゃんが駆け寄ると、お母さんの目にはまた涙が浮かんでいました。

ゆみちゃんは無性に腹が立って、そして悲しくなりました。

***

ゆみちゃんは外に出ました。お母さんに博物館の山茶花の蕾をひとつ、取ってくるつもりでした。よそのお花を勝手に取っては行けないのを知っていましたが、今日だけはどうしても欲しかったのです。

幸い寒い冬の庭には、あまり人がいませんでした。山茶花は透き通るように白い花を沢山沢山つけていました。ゆみちゃんは木のすぐ側の石のベンチに、そっと腰を下ろしました。

綺麗に咲いているお花を見ると、やっぱり折るのがためらわれました。そのままぼうっと眺めていたら、涙がどんどん出てきました。誰かに見られないように急いでハンカチで目を拭いた時、肩をそっと叩かれました。

振り返ると、白く光るコートを着た、綺麗なお姉さんが立っていました。ゆみちゃんは「あっ。」と思いました。お姉さんの顔には、確かに見覚えがありました。

(あの時のお姉ちゃん…。)

「こんにちは。」

お姉さんが微笑みました。

「こんにちは…。」

お返事するのがやっとでした。

「何かあったの?」

お姉さんが訊きました。

ゆみちゃんは答えられませんでした。ただ涙が溢れてきました。お姉さんがすうっと腕を伸ばして、ゆみちゃんを抱き寄せてくれました。ほのかに良い香りがしました。

「お姉ちゃん…。」

「なぁに?」

「お父さん、もうどこにもいないの?」

「さぁ…。」

首をかしげた後、お姉さんは訊き返しました。

「あなたはどう思うの?」

「…わかんない。」

「そう…。」

「わたし、木場のおばさん嫌い…。 お母さんを泣かせたの。」

「そう」

「どうしてあんなこと言うの? みんな悲しくても黙ってる人もいるの、分からないのかしら。」

「そうね、それか…。」

「それか…?」

「自分の『悲しいこと』で、手一杯なのかも知れないわ。」

「…うん。」


「お姉ちゃん…。」

「なぁに?」

「また、お父さんに会いたい。」

「うん、そうよね。」

お姉さんの華奢な手がゆみちゃんの頭をふわり、ふわりと撫でてくれました。


辺りが暗くなり始めた頃、お姉さんが、

「さぁ、もう帰った方がいいわ。」

と言いました。

「うん。」

ゆみちゃんは目を拭って立ち上がりました。

「ちょっと待っててね。」

お姉さんが向こうを向きました。


振り返ったお姉さんは、お花と蕾が一つずつついた山茶花の小枝を差し出しました。

「これ、持ってお帰りなさいな。」

「え…。でも…。」

「いいから。」

お姉さんが微笑みました。ふと見ると、お姉さんのコートに小さな破れ目が出来ています。ゆみちゃんはお姉さんの顔をまじまじと見上げました。

「ふふ。さようなら。」

お姉さんはまた、にっこりと笑いました。

「うん。ありがとう。」

ゆみちゃんは小枝を受けとりました。

そして何となく言いました。

「ごめんなさい…。」

「いいのよ。」

ゆみちゃんは歩き出しました。


ゆみちゃんの持って帰ったお花を見て、お母さんは驚いて言いました。

「まぁ、ゆみが取って来たの?」

「え…。うん…。」

(あれ…? そうだっけ?)

「ありがとう。でも、もう、しないのよ。」

「うん。ごめんなさい。」

ゆみちゃんが首にしがみつくと、お母さんはゆみちゃんを抱き返してくれました。

二人で暫く泣きました。

***

それから随分経ちました。

週2、3回だったお母さんの「お勤めの日」が毎日になったり、もともとしょっちゅう行き来していたなほさんがもっと近くに引っ越して来たりして、ゆみちゃんの暮らしは少しずつ変わりました。

けれど、まるで何事もなかったように、時は変わらず過ぎて行きます。

千鳥台の町に、また萩の季節が来ます。


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