9月になると、千鳥台の町はあちらこちらに植えられた萩の花で一杯になります。
ゆみちゃんの家の小さな庭にも、萩の木がひと株植えられていて、毎年赤紫色の花を咲かせます…。
ゆみちゃんに長い間強い印象を残したある出来事が起こったのは、ちょうどそんな季節でした。
お父さんがまだ元気だった頃、ゆみちゃんは半年だけ普通の学校に通ったことがありました。大抵の人たちは親切で友達も何人か出来ました。ゆみちゃんは学校を嫌いではありませんでした。
ある日てつや君という男の子が「春日だっていつも体育休むんだから、俺も作文なんてしたくない。」と言って先生に叱られたことがありました。ゆみちゃんは急に自分の名前が出てきてびっくりしました。でも実は、ちょっとは覚悟していたことだったので、(仕方ないな。)と思いました。
それから暫く経ったある日のお絵かきの授業で、ゆみちゃんはとても褒められました。その翌日、得意のドッジボールで失敗した後のてつや君と見学席にいたゆみちゃんの目がたまたまあってしまいました。この日から、何かがおかしな具合になりました。
そして、事件が起こりました。
てつや君の大事にしているゲーム用のカードが見当たらなくなった時のことでした。
てつや君が
「春日、お前がやったんだろう?」
と言ったのです。
「大体お前、俺たちのこと馬鹿にしてるじゃないか!それに、俺がお前のこと嫌いだから、怒ってやったんだろう?」
(え…。)
(どうして、そうなるんだろう…。)
ゆみちゃんは呆然としてしまいました。あんまり驚いたので、言い返すのも忘れていました。
その場は何とかおさまったのですが、帰りにてつや君が数人の仲良しと一緒にゆみちゃんを待ち伏せしていました。
人の少ない千鳥川の土手沿いの道でした。
てつや君は仲良しのあきおくんと二人でいきなりゆみちゃんの鞄をひったくって川に放りこみました。
ゆみちゃんは思わず冷たくなり始めている水の中にざぶざぶと入って行きました。鞄の中にはその日お友達に借りた本が入っていたのです。
「なんだよ、やっぱり、運動出来るんじゃないか。ずるいんだよ、お前だけ。」
「そうだよ。うちのお父さんが言ってたぞ。クラスのみんなは家族みたいに仲良くしなきゃ駄目だって。なのに、なんでお前だけ、いつも違うんだよ!」
「そうだ、そうだ。それに、おれ知ってるぞ。ビョーキになるのはココロガケが悪いからなんだぞ。」
背中でてつや君たちの声がしましたがゆみちゃんは夢中でした。
やっと鞄をつかんだ時、急に胸がつまるような感じがして咳が止まらなくなりました。
(あ…。しまった…。)
急いで戻ろうとしたゆみちゃんは、つるつるした川底の石に足を滑べらせて水の中に転んでしまいました。突然だったので水を沢山飲んでしまいましたが、鞄は落さずにすみました。ゆみちゃんはほっとしました。
(戻らなきゃ。)
(自分で戻らなきゃ。誰も助けてくれない。)
それだけはよく分かりました。
どうやって岸に上がったのか、気がついたら河原の石の上に横になったゆみちゃんの顔を、赤紫色の小花模様の服を着た綺麗なお姉さんが心配そうに見下ろしていました。
ゆみちゃんは何も考えることができませんでした。
「だいじょうぶ?」
お姉さんが聞きました。
ゆみちゃんは答えることができませんでした。
「どこか痛いの?」
「わからない…。」
「何があったの?」
「…わかんない…。」
「そう…。」
白い綺麗な手がゆみちゃんの額をふわりと覆いました。お姉さんはそのまま黙って側にいてくれました。ゆみちゃんは何故かだんだん安心しました。
何があったか少しずつ思い出して、慌てて辺りを見回してみました。てつや君たちはもう、どこかへ行ってしまったようです。
「良かった。もう、鞄取られない…。」
「うん、良かったね。」
お姉さんが微笑んで頷きました。
「お姉ちゃんが助けてくれたの?」
「そう言う訳でもないんだけど。」
「どうして一緒にいてくれるの?」
「出会ってしまったからよ。」
「だからってどうして?」
「いつかお別れが来るからよ。」
「…変なの。」
「ふふふ、そうかしら。」
「うん、でも…。ありがと…。」
「どういたしまして。」
お姉さんはにっこり笑いました。
「お姉ちゃん、私、身体をあまり動かせないの。」
「そう。」
「だから他のことをがんばってたんだけど、悪いことだったのかしら?」
「さぁ。」
お姉さんの身体から、ふっといい匂いが漂って来ました。
「きっと、そういうことじゃないのよ…。」
まるで何でも知っているかのように、お姉さんは言いました。
「ふぅん。」
「てつやくんも、あきおくんも、じゅんじくんも、まさかずくんも…、分かってくれなくていいから、どうしてそぅっとしておいてくれないのかしら…。」
「そうね、どうしてかしらね。」
「さぁ、少し、お眠りなさいな。私、誰か来るまでずっといるから。」
「うん。」
ほっとしたら、目の前が暗くなくなりました。
暫くして、知らない人たちの声が聞こえてきました。
「ほら、あそこ…。」
「女の子が一人で倒れてるんですよ…。」
(あれ? わたし、一人じゃないよ…。)
(ほら、一緒に…。あれ…? 誰だっけ?)
確かに、誰かとお話していたような気がしたんだけど…。
寒くて苦しくて目がまわって、思うように動けないまま、ゆみちゃんはまた眠り込みました。
それからどれ位経ったでしょう。病院のベッドでうつらうつらしていたゆみちゃんの耳に、お父さんとよその大人の人たちの話声が聞こえてきました。
「なら、結局、カードはお子さんの道具箱から出てきたんですね。」
「ええ。ですから私たちも残念なんですよ。でも間違ったんだから仕方ないじゃないですか。子供同士ではよくあることでしょう。第一、娘さんは御自分で川に入って行かれたって伺ってますけど。」
「…娘は死ぬところだったんですよ。他に言うことは無いんですか。」
「まぁ、そんなことうちの子が知ったらきっとショックを受けますから、絶対に言わないでくださいな!」
「かずこ、もうやめよう。春日さんは今興奮なさってる。冷静に話し合える状態じゃないよ…。」
「でも…。何も知らないくせに、自分たちが全部正しいようなことを言って、この方たち、自分勝手過ぎますよ…。生きていたんだから、もういいでしょう? あなた方は知らないんでしょうけれど、誰にだって時には不幸が降り掛かるものなんですよ! そんなときは忘れるしかないでしょう? それが分からないなんて、いくらなんでも大人げないじゃないですか!
それに、お宅のお子さんみたいな子がいれば、誰だってちょっと位、今回みたいなこともしたくなるものでしょう?それを感情的になって、迷惑なんですよ。」
「…。」
こんなやりとりを、ゆみちゃんは妙に静かな気持ちで聞いていました。
(なんだか変だ…。この人たちの言うこと、全部本気で言ってるみたいだけど、なんだか変だ…。)
暫くして、お父さんとお母さんがため息をつき合っているのが分かりました。
一週間後の退院の日に、お父さんはめずらしく真面目な顔で言いました。
「大変だったね…。」
「世の中には色んな人がいて、みんな大変だからさ。色んなことがあるんだ…。」
「でも、お前はあんな風になっちゃいけない。自分と違う人をむやみに嫌ったり疑ったりしないで、いつも自分で何かを生み出すようにしなさい。そうすればきっと楽しいこともあるからね…。」
ゆみちゃんは黙って頷きました。
病院の庭でも、萩が揺れていました。