ぷろふぁいるのぺーじにもどる、 まえのたわごとへ、 つぎのたわごとへ
サン・テグジュペリの「星の王子さま」が小学校時代以来、長年の愛読書です。
初めて読んだのは(もちろん)日本語版でした。大好きで、折に触れて読み返していたのですが、実は読む度にいつも後ろめたくなる所がありました。
それは岩波少年文庫版の26ページの初めの方にある、
ぼくは、この本を、寝そべったりなんかして、読んでもらいたくないからです。
という部分です。というのは、私がこの本を読む時は大抵、自宅で寝そべって読んでいたからです。
ご存知の方も多いことと思いますが、この物語は、あるパイロットが、飛行機の故障のために砂漠で遭難した折に、よその星からひとりで地球にやって来ていた小さな「王子さま」と友達になり、彼との束の間の交流の6年後にその思い出を綴るという設定で書かれています。
その王子さまの友達が、「ぼくはこの、恐らく二度と会うことのできない大好きな友達について語るのが今でも本当につらいのだけれど、彼のことを忘れないために本を書くのだから、ちゃんと真剣に読んでくれ。」と要求しているのです。
この要求は子供心にも至極もっともだと思われるのですが、一方で不精な私は、いくら好きなお話の書き手から少々のクレームがついたからと言って、自分の読書姿勢をわざわざ改める気もあまりない訳です。だって、息抜きや寝る前の時間の楽しみだったのですから。でも、ちょっと気にはなる…。
「本を寝そべって読むのって、そんなに悪いことなのかな。」という素朴な疑問を、私は長い間抱いてきました。
(別にそんなに深刻じゃありませんでしたけれど。)
ところが、そうこうするうちに、わたしはある時期、始終「寝そべって本を」読まざるを得ない状況にどっぷりつかることになりました。他人様よりかなり長い学生生活をどうやら終える前頃から、体調が坂を転がるように悪化して来たのです。
それでも何とか卒業・就職にこぎ着けて、勤務先に単身赴任した時には、まだ体調の変化を軽く考えていて、「多分昔より体力が落ちてるんだろうけれど、まあ、これ以上悪くなることはないだろう。」などと思っていました。
けれどその予想とは裏腹に、暫くすると、立っている時どころか、座って身体を起こしているだけで眩暈がするようになりました。当然、書物、特に英語で書かれたものなどは、うまく頭に入りません。新しい仕事を始めたばかりで、予備知識の足りない分野の文献など、読まなければならないものは沢山あるのに、全く消化能力が追いつかなくなりました。同時に、起立時にものを考える能力も甚だしく低下し、人と仕事の話をしている時に言葉がうまく出て来なくて思わず悔し涙を流したことも何度かありました。
そんな時、横になっていれば文献も頭に入るし、ある程度まとまった思考も出来ることに気がついたのです。
それ以来、仕事上の文献は殆ど全てアパートの布団の中で処理するようになりました。デスクワーク以外の仕事の作業手順や、人に言葉で伝えなければならないことなども(特に外国の方とお話をする折には)、あらかじめ、考えられる限りの事態に対応したシナリオをノートに書き込んで置けば、かなり助けになることも分かりました。(学生の時、指導教官が研究そのものだけでなく、内容のプレゼンテーションの訓練を随分きちんとやって下さっていたのが、あの頃大部役に立ちました。)
思えばちょっと無茶だったような気もしますが、それでも当時はやっぱり嬉しかったものです。
これで、横になればものが考えられるうちは、仕事を続けられるかも知れないと思いました。今ほど不景気ではなかったものの、ろくな業績も上げずに退職した女性が再就職出来る保証はありませんでしたし。多少無茶でも、「やるしかない」時ってあるものですよね…。 (大昔のことですので いつまでも十代の感覚が抜けず、身体は気合い次第で自分の「命令」を聞くものと思い込んでもいたのです…。)
ともあれその頃から、私の「寝そべって本を読む」ことへの漠然としたこだわりは、なし崩しに消えて行きました。
更に何年かして、この問題のそもそもの始まりに関して、私はそれを揺るがすような新たな事実(大袈裟)に出会いました。
趣味と勉強を兼ねて「星の王子さま」の英語版(Harcourt, Inc. Richard Howard氏訳)を読んだ所、例の部分に対応するsentenceは、
The fact is, I don't want my book to be taken lightly.
だったのです。
直訳すれば、「ぼくはこの本を軽く受け取ってもらいたくないのです。」となって、別に読書時の姿勢については何もコメントしてはいません。
今の所、原書のフランス語を読めない私には確認のしようがないのですが、私に長年淡いひっかかりを植え付けてきた例の一節は、日本語版の訳者の内藤濯氏による思い切った意訳である可能性も出て来ました。私はこの方の訳文がとても好きで、この本をこんなにも長く愛読するようになったのは、その訳文による所も大きいと思っているのですが、このことだけは、いつか機会があったら確かめてみたいものです。