ぷろふぁいるのぺーじにもどる、 まえのたわごとへ、 つぎのたわごとへ
昔、体調を崩した時、何人かの人から、「働きたくないからわざと病気になっているのでしょう。」という様なことを言われたことがあります。
別に特別なことではなく、原因の分からない体調不良を抱えた人には そういうことが良く起こるものらしく、どこかで読んだ話にも、人づてに聞いた話にも、似たようなことがありました。
時として人から誤解を受けたり、相手が自分を 自分で望んでいる様には見てくれなかったりと言った経験は、それまでにもありましたし、誰でも多少そういうものだという認識がありました。ですから、それはまあ そういうもので、(意地っぱりだったので悔しい思いはしましたが)仕方のないことでした。
個人的に一番堪えたのは、当時まだ、具合の悪い原因が分かっておらず、そうした言葉に反論する材料がなかったため、自分の中に、「もしかしたら、その通りなのかな?」という疑いが湧き起こったことでした。
意図的に仮病を使ってはいないこと、諸々の症状があること、自分では治りたいと思っていることは本当でも、「無意識の内」で、仮病を使っているとか、病気になりたがっていると責められれば、それを否定する、説得力のある根拠は、自力ではなかなか得ることができません。
また、体調の悪化が急激に起こったものでなく、2、3年かけてゆっくりと進行したため、気づいた時には「普段の感じ」と、「どうしても起き上がれない程体調が悪い時の感じ」が紙一重になっていました。その為にますます、「自分は本当に具合が悪いのか」が自分で分からず、「もしかしたら、本当は、あとちょっとのがんばりで起き上がれるのではないか?」という疑念と、いつも隣合わせになっていたのです。
私は「仕事をしたくないから病気になったのではない」ということを、自分に対して証明せずにはいられなくなりました。
けれども、どうすればそんなことができるのか。
たどり着いた結論は
「そうだ、起き上がれない時でも、仕事をすればいいんだ。」
ということでした。
今振り返れば、どうも何かが間違った論理ですが、当時は、その様に考えて実行せざるを得ない状況がありました。
意地っぱりな性格が、今より若かった分、極端でもあったのでしょうし、また、憧れていた職業につくために、長年、元々あまり優秀とは言えない頭を力づくで回転させ続けていたのと、体調の崩れとで、大局的な判断が出来なくなってもいたのでしょう。
ともあれ、そうした訳で、何年かその場所に踏みとどまってみて、いくつか気づいたことがありました。
その一つは、どうもこの問題は、どこまで行っても「証明」など出来るものではないらしい、ということでした。それは「信じるか、信じないか」という軸の上にしかないことで、客観的に裏付けられることではありませんでした。
結局何年かして、同年代の同性の人に良くある種類の、小さな手術を2、3箇所受けるなどした結果、体調は飛躍的に改善しました。程なく最悪の状態を脱したのと前後して、一時は横にならないと出来なくなっていた、ものを考えたり覚えたりすることも、完全に若いころと同じ様には行かないものの、随分楽に出来るようになりました。
体力の低下は多少残るものの、毎日起きて動いても、ほとんど寝込まずにすむようになった今、私の心には、他の幾つかのことと一緒に、「どうすれば、自分は働き続けられるか」、「これからの自分に身に着けられる仕事は何か」という問いかけが、いつも居座っています。
「自分は働きたくなかった訳ではない。」という思いが、かつての切実さを失っても、一枚のカードのように、私の中に残っているのかも知れません。
「他の人は、信じてくれることもあるし、そうでないこともある。それはそれ。けれど、自分では信じたい。信じられるようにありたい。」
ということは、あるものなのだと思います。
けれどそれは、例え「証明」は出来ないのだとしても、自分の中に、「信じるための材料」がなければ上手くいかないことのようです。それが無いのなら、毎日少しずつ積み重ねて行かなければなりません。
私の場合、誰が相手でもない、トランプの独りゲームのようなその作業は、寝ついていた間ずっと保留されて、現在に持ち越されて来てしまったようです。
この作業がいつ終るものなのか、私には分かりません。手早く片付けられる方法が無く、毎日の、小さな生活の積み上げの中にしか、答の見つけられない問題は多いのだと思いますが、これもその一つのようです。フルタイムは無理でも、せめて今している位のペースで働き続けたい、出来れば少しずつ、働く時間を増やして行きたい、などと良く思います。ですが、先のことは分からないので、果たしてこれからも職があるのかも、それを自分が続けて行けるのかも、確かな見当はつきません。
けれども、取り敢えず、今日も目の前のカードを並べてはめくっています。
ただ、ここ数年は、「無理をする」ということが本当に出来なくなっており、まさしく「あとちょっとのがんばりで」終らせられそうなことも、「明日にしよう」と寝てしまいます…。はてさて、この独りゲームの結末や如何に…。
今当時をたまに振り返ると、どんな病気を患っている人も、「わざと病気になっている」などと言われなくて済むようになるよう、祈らずにはいられません。好きで病気になる人など一人もいないはずだし、病気の人はだれも皆、原因が分かっている・いないに関わらず、良くなりたいと思い、その方向へ向かって試行錯誤しているのではないかと、私には思われます。それは、私自身がそうだったからです。