ぷろふぁいるのぺーじにもどる、 まえのたわごとへ、 つぎのたわごとへ
一番初めにあったのは、一体どっちでしょうね?、というお話。
疲れた時などに、ちょっとぼぅっとして空を見たり、木や草を眺めたりすると、一瞬、「ああ、なんだか、無心な感じでいいなあ…。」などと思います。でも、すぐ次の瞬間には、「はて、植物が『無心』って、ほんとかしら?」とふと考えます。
動物のように、「脳」とか、「神経」とかいう、感じたり考えたりするための専門の器官が発達していないからといって、植物が何も「思っていない」ことの証明に、果たしてなるのかしら?と…。
実際、神経などなくても、植物は障害物の存在やら重力の方向やらを、「感じとって」、それに応じて根や茎を延ばしたり、曲げたりするといいます。そんなときには、障害物のある側とその反対側で細胞分裂の頻度を変えるとか、何かそんなこと(どこかで読みかじった話なので、正確に書けなくてすみません。)をして、なかなかうまいことやっているそうです。
ならば、あまり込み入ったことは考えていないとしても、結構色々なことを感じたり、思ったりもしているのではないかな、などと空想してみます。
そうすると、昔々深いシダの森で、ふっと稲光が閃くように、植物たちが最初に「思った」ことって、一体なんだろう?と思います。
それこそが、生き物が持つ、もっとも根源的な「気持ち」のひとつかもしれません…。
そんなものがあるとすれば、きっと、言葉にすれば「文」にもならず、ほんのワンフレーズで終ってしまう位の簡単なことでしょう。
例えば「愛しい」という気持ち、例えば「知りたい」という気持ち、例えば「嫌だ」という気持ち…。
この場合、何となく「◯◯が愛しい」でも「◯◯を知りたい」でも「◯◯が嫌だ」でもないんじゃないかな、という気がします。
そんな埓もない空想の淵から戻って来てふと、私たちが「何かを知りたい」と思う時のことを考えてみます。すると、先にあったのは、さて、知りたいと思う「何か」かしら、それともただ漠然と、何かを「知りたい」と思う気持ちの方かしら、と、またしょうもない疑問に突き当たります。(まあ、暇なものですから(^^;。)
ぱっと見には、私たちは何か疑問に思う「物事」に出会って初めて、「知りたい」という気持ちを抱くとするのが理にかなっているようですが、果たしてそうかしら…。
そこで、私たちはただ漠然と何かを「知りたい」とか「愛しい」とか「嫌だ」とか思う(または思いたい)気持ちを、初めから持っているのではないかしら、と仮定します。
すると、そんな風に考える方が妙にぴったりくる現象が結構多いことに気がつきます。
愛しても良い「何か」とか、追求するべき「何か」とか、ああ嫌だ嫌だと思う「何か」とかがちょっとずつあると、何となく幸福なのはその所為かも知れません。(別に、こういうのが幸福のベストの形だ、などと言う気はありません。念のため;)。 )